
谢谢独爱姐姐提供的宝贵资料及翻译^O^
原文刊载在11月20日的《读卖新闻》上。电子版连接请看~
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/stage/trad/20061120et03.htm
年齢超えた“萬斎妖狐”
猟師の罠(わな)に掛かり一族を皆殺しにされた百歳の古狐(シテ野村萬斎)が、猟師の伯父で禅僧の白蔵主(はくぞうす)に化けて猟師(アド石田幸雄)を教え諭し、これ以上の殺生を止めさせようとする。
しかし伯父の態度に不審を抱いた猟師は、捨てると見せかけて罠を仕掛ける。狐は帰り道にそれを見つけるが、餌の若ネズミの天ぷらに未練を残しつつ一度は姿を消す。荒らされた罠を見て、抜け目なく獲物を待つ猟師。やがて再び本性をむき出しにした古狐(後シテ野村萬斎)が現れる。
「釣狐」は能の「道成寺」にも比せられる狂言の大曲。父万作得意中の得意曲「釣狐」が、萬斎薬籠(やくろう)中のものとなるか否か。十二月一日までの間に、「釣狐」で五回の連続公演をもくろむ萬斎の意気込みこそが、見どころであろう。
萬斎は万作風の正統的な狐を演じようとした。楷書(かいしょ)の芸が野村狂言の本質であってみれば、これは当然の行き方だ。しかし萬斎の若い肉体は老練の万作とはあくまで異質で、正統へのこだわりが、一種の異化効果をもたらした。
したたかな古狐でも断ちがたい生への執念の深さがこの作品のテーマだ。しかし百歳の老狐を感じさせないという、萬斎の身体の裏切りにより、それは未練の狐の写実へと変質する。それにより老体で演じるという「釣狐」のあり方が、はたして正しいのかという反問で切り返す強さが、この日の萬斎の舞台にはあった。超自然の存在でもある妖狐には、年齢不問の特権があってもよいだろう。
年齢を超越した狐をしなやかに演じうるのは、やはりこの人を措(お)いて他(ほか)にあるまい。今回の狐は、現在形の萬斎をあるがままに楽しめる舞台となった。今後の化け方が楽しみだ。(早稲田大学演劇博物館館長 竹本幹夫)
――8日、宝生能楽堂。